エッセイ

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母の日に想う

 

 何方でも母に対する想い出は沢山あると思う。 私もそんな想い出は枚挙にいとまのない程あるが、喜寿を越えた近年マスコミなどで母の日と 聞くと必ず思い出して母の偉大さ、優しさ、そして親心に充分に答えられなかった後悔の念が ふつふつと湧いてくる想い出がある。

 時は昭和30年代前半の頃である。高度成長期以前の事で、普通の家庭には電話もなけれ ば、自家用車などない時代であった。 私は結婚して2年位の時、親に無理を言って名古屋市南部に一戸建ての家を購入してもらっ て、新婚生活を始めて間もなくの頃のことである。

私の実家は知多半島中部の片田舎、田園地帯に丘の点在する農村である。4月上旬櫻の咲く 頃に春祭りがあり、当時は未だ近郊近在の親類が集まって祭りを楽しんでいたものである。 この祭りに「大したご馳走も出来ないが嫁と二人で来るように」と、手紙をもらっいてた。

ところが、当日はサラリーマンにとって貴重な日曜日であったため、実家の祭りなんかに行くよりは 家で妻とのんびり過ごした方が良い、と自己中心的に考えて帰省を断っていたのである。 祭り当日は朝からこの季節としては珍しく、かなりの強い雨が降っていた。私は家で雑誌か何 かをめくりながら寝ころんでいた。

 お昼前頃になって、突然「こんにちは」と玄関に母の声がしたのである。 急いで玄関に行くと其処に滴の垂れる番傘を右の手に、左手に大きな風呂敷包みを提げて立 っている母の姿があった、粗末な服で強い雨の日のための下駄履き姿であった。

母は私が祭りに帰らないので、息子夫婦に祭りの手作りのお寿司やご馳走を食べさせ、また元気 な息子 夫婦の顔を見ようと悪天候のなか、はるばると電車と徒歩で名古屋のわが家まで持ってきて呉れたのである。 私の実家は、電車の駅まで女の足で歩いて30分位の距離、ここから電車で30分、市内の最寄り駅から は更に10数分でやっとわが家に着くのである。

 服もかなり雨に濡れていたため、妻が有り合わせの物に着替えてもらったのだが、私はこの 悪天候の中、可愛い息子に祭りのご馳走を食べさせようと、還暦過ぎの母が労力も厭わずに 重箱に詰めて遠くまで持参して来てくれだ、当日は日曜日でもあり、家にいる自分が実家に出 掛けて兄弟達と祭りの一日を過ごせば、歳老いた母にこんな労力を掛けずに済んだのだと思 うと、とんでもない親不孝をしたと後悔の念がこみ上げてきた。

若い自分が日曜日を気ままに過ごしたいがために、自分本位の考えからこんなに親に難儀をさせ てしまったのかと、自分の考えの至らなさをつくづく反省し、悔いたのだった。 その夜は、流石に帰ると言う母を引き留めて、わが家でゆっくりして貰ったのだが、この済まな い気持ちを心の中に持ちつつも、若い自分はストレートにその気持ちを母に伝える十分な言葉 も見出せずに過ぎてしまったことが、未だに残念に思われてならないのである。

 その十数年後、母は喜寿を迎えた春に病床にあったが、私たちが土地の慣わしであるお祝の  赤い毛布を贈ると喜んでそれを着て寝ていた。それから10数日後、安らかにこの世を去った。 自分も喜寿を過ぎたいま、母の日と聞くと近年必ずこれを想い出して、過ぎし日の親不孝を悔 いるのである。

2006年5月13日記